忠勝は、二代目忠政の嫡子です。父忠政は若くして死亡しましたが、忠勝がまだ幼少の身であったため代官頭には任ぜられませんでした。代官頭には代わって叔 父忠治が任ぜられましたが、忠勝も父の死の翌年9歳でこの世を去り、伊奈の願成寺に葬られました。このため忠次の直系は断絶し、1万3千石は没収されてし まいますが、忠次の偉大な功労が認められ、忠政の二男、千代松(忠隆)に対して、旧領地の小室郷が与えられお家断絶は免れました。その後忠治の子孫が寛政 3年12代目が改易されるまで伊奈家が関東郡代の職を世襲しました。
伊奈氏は、関東郡代の職や領地を取り上げられますが、直参の旗本として存続し、寛政4年に領地没収後、新地1千石を伊奈半左衛門忠信、忠行と続き明治 時代に至っています。忠次の二男忠治は、忠政の死後、関東郡代の職を引き継ぎ、武蔵国赤山領7千石を賜り、陣屋を赤芝山(川口市大字赤山)に設け、父の忠 次の意志を受け継ぎ、幕府の統治体制の確立期にあたり広く民政に尽くしました。