伊奈氏歴史探訪

 

歴史探訪「伊奈備前守忠次と伊奈」

歴史探訪「伊奈備前守忠次と伊奈」
 
丸山に陣屋を構えた伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)
伊奈氏は、清和源氏の流れをくむ源満快のひ孫に当たる為公が信州伊那に住んでいたことから地名をとって、伊奈氏を名乗ったと言われています。後に忠基の代 になり、三河国幡豆郡小島(愛知県西尾市)の城主となり徳川家康の父、松平広忠に仕えました。この忠基の子が忠家、忠家の子が備前守忠次です。
忠次は、天文19年(1550年)に生まれ、はじめは熊蔵家次といっていました。幼少のころから人並みはずれた秀才であり、治水、土木、開田をすす め、住民の生活及び徳川家の財政安定に貢献しました。家康から、三河国小島の旧領地と武州小室、鴻巣領の1万3千石を与えられ、後に従五位下備前守に任ぜられ、代官頭(後の関東郡代)となりました。家康は、忠次に関八州の諸税を把握させ、さらに市川、松戸、房川(北葛飾郡栗橋町)3ヶ所の関所の主宰者として江戸への入り口守備を命じました。
伊奈町における忠次は、小室郷(伊奈町大字小室字丸ノ内)に陣屋を構えて関八州の天領(幕府直轄地)を治め、検地の実施、中山道その他の宿場の整備、加納備前堤、川島大囲堤を築堤するなど関東各地に渡って、治水・土木・開墾等の事業に大きな功績を挙げました。
また民衆の立場にたって温情ある政治を施し、治水は無論のこと河川の改修、水田開発、産業の発展を図り、財政向上に貢献した忠次は、家康の信頼も厚く、家臣や領民にも感謝と尊敬をされながら、慶長15年病のため61歳でこの世を去り。鴻巣市勝願寺に葬られました。
 
 
伊奈屋敷跡と石碑
 
障子堀跡
 
障子堀跡
   
※障子堀とは・・・底に格子状の(土盛り)を作り、敵の動きを鈍らせる為の工夫。現在は史跡保護の観点から、障子堀は埋め戻されています。
 
〔伊奈氏屋敷跡〕
中世に丸山城という城郭があったと伝えられていますが、その規模ははっきりわかっていません。北条氏滅亡後、忠次が天正18年8月小室宿(伊奈町大字小室 丸ノ内)に陣屋を構えました。この地は、無量寺閼伽井坊の所有でしたが、陣屋を構える為倉田(桶川市)明星院に移らせたといわれています。発掘調査では、 障子堀遺構も発見され、忠次は中世城郭を利用して陣屋を築いたと考えられます。
 
〔伊奈熊蔵忠勝とその後の伊奈氏〕
忠勝は、二代目忠政の嫡子です。父忠政は若くして死亡しましたが、忠勝がまだ幼少の身であったため代官頭には任ぜられませんでした。代官頭には代わって叔 父忠治が任ぜられましたが、忠勝も父の死の翌年9歳でこの世を去り、伊奈の願成寺に葬られました。このため忠次の直系は断絶し、1万3千石は没収されてし まいますが、忠次の偉大な功労が認められ、忠政の二男、千代松(忠隆)に対して、旧領地の小室郷が与えられお家断絶は免れました。その後忠治の子孫が寛政 3年12代目が改易されるまで伊奈家が関東郡代の職を世襲しました。
 
伊奈氏は、関東郡代の職や領地を取り上げられますが、直参の旗本として存続し、寛政4年に領地没収後、新地1千石を伊奈半左衛門忠信、忠行と続き明治 時代に至っています。忠次の二男忠治は、忠政の死後、関東郡代の職を引き継ぎ、武蔵国赤山領7千石を賜り、陣屋を赤芝山(川口市大字赤山)に設け、父の忠 次の意志を受け継ぎ、幕府の統治体制の確立期にあたり広く民政に尽くしました。
 
 
願成寺:忠勝の墓
忠次のお仕事アラカルト!
●千住大橋:隅田川にかけられた最初の橋で、隅田川は川の流れが複雑でしかも地盤が固いなど、川に橋を架ける事が大変な難事業でしたが忠次が完成させました。
●結城紬 :江戸時代衰退していた茨城県結城地方の結城紬でしたが、忠次は産業の復興 に力をそそぎ、それまで無地が多かった結城紬を信州から織工を招き染色法や柳條の織法を指導させました。(柳条紬)

※参考文献:町制20周年記念「ふるさと伊奈」 編集 町史編集室
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